「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を見た

話題の映画は混雑

 3時間25分。途中休憩のある上映だが久々の京都シネマは満席。実は混雑してる事を前の週に知らないで出かけたら、10分前に到着しても立ち見と言われて、さすがに3時間立って見るのは辛いので持ち越した。観客は若い人から年配の人まで様々。この日は上映の1時間前に到着して49番目というチケットを手に入れた。

注・ご覧になってない方にはネタバレ的なこともあるかもしれないので以下はご了承の上お読みください。

映像制作者としての視点

 この作品、ドキュメンタリーなのにインタビューもなければ登場人物の名前のテロップなどの文字もない。有名人も肩書きも、そんな事より発言にこそ真があると言わんばかりで、当然ナレーションなどあるわけもない。音楽は図書館で開催されたコンサートや図書館前の路上や公園のストリート・ミュージシャンの音楽をなるべくカットせずに使っている。なのでひたすらその記録された映像の中に引き込まれつつ考えさせられる作りだ。
 会議やトークイベントで話される内容、あるいは来館者が担当の係りの人と交わす言葉などが次々に登場しその内容について「ああなるほどなぁ」なんて考えていると、会話は普通に進んで展開するので字幕を追いかけられずに置いて行かれそうになるくらい様々な物語が紹介される。購入した800円のパンフレットによると約3カ月間の取材で蓄積された素材で構成したらしい。なのであまり時間の経過、歴史的な事は感じずに、ひたすら現在進行形の図書館が続く。

28pのパンフは読み物としても興味深い

来館者の許可をどうしたのだろうか

 途中くらいで気になったのは、来館者と接する図書館スタッフとの会話などがとても自然でありながら、音声はとても明瞭に録られている点だ。撮影は専属のカメラマンが担当したようだが、音声は監督自らやっている。それくらい音声にはこだわりがあったのだと思う。トークイベントなどの音声はPAから明瞭に録音されていて、図書館のカウンターなどで録られた会話は、カウンターにマイクが仕込んであったと思うくらいしっかりと入っている。ガンマイクを長い竿で構えていたとすると、あんなに自然に来館者は話をしないと思う。会議やイベントでは事前に許可を取りながらの撮影だったと思うが、不特定多数の来館者全員に録画録音の許可を取っていたとは思えない作りだ。(実際とっていないと思う)特に図書館の外の公園で読書する人や様々な時間の過ごし方をしている人、爆睡している人も含めて、うらやましいくらい自由に撮られている。
 近年、私が日本の公共施設で撮影をするときには必ず、事前に許可を取るように主催者から言われることが多いが、そもそも公共施設に来ている人で撮られて困る人は皆無で、今まで映りたくないと言われた事はない。0パーセントだ。公園で仲良く寝ている男女ともなれば話は違うのかも知れなが、たまたま居合わせてこの映画の1シーンを飾る素材になったのであれば、それはそれで人生の宝物だ。ジェームス・ブラウンのコンサートの観客席の一番前で激しく踊っている私の友人は自慢のレーザーディスクを持っている。もうそろそろレーザー・ディスクの再生の方が怪しいが・・。 話がずれたが、要するに映画の途中でそのことがとても気になった。

図書館というテーマ

 美術館の場合でも、ルーブルとかエルミタージュのような有名所を扱ったものであれば、それだけで興味を持って見てくれる人がいる。この映画も図書館の中では特別に有名なニューヨーク公共図書館なので、それだけでまず注目度が高い。さらに知られざるバックヤードの仕組みや内部の運営資金を巡る議論、知らない分館のトピックスまでを垣間見られるとなると、まず観客が「見たい」というところから視聴が始まるのでかなりの高さから跳躍を始めることができる。配給元の不満などを考えることもなく3時間半もの長さにしちゃおうと考えられる所以だ。2層のDVDでも多少画質が落ちてしまう長さなので、いろいろ文句は出たに違いない。いや、実績と御年齢がそうはさせないカリスマ的オーラで「3時間半」が素晴らしいと言わせてしまうのかとも思う。が、実際のところ映像制作をしている私が思うに、短くしたことが気にならないように短く出来そうなところは、いっぱいあった。多分、学生がこれを作ってきたら何回もダメ出ししていると思えるレベルが、この絶妙なダラダラ感の漂う時間の使い方もまた図書館なのだということを気づかせる。そう、美術館の映像でも自分が見せたいポロックの作品だったら1枚の絵でも10分くらいいろいろなカットを見せたりしても良いのだということだと思う。なので時間軸的にも図書館を描くにはこのくらいが丁度良かったのだ。

映画ではテロップがなく、まったく解説されない部屋の配置などがバンフに

ネット社会と対峙する映画

 映画そのものも、ネット配信が始まって変化してきていると言われるが、この映画の中でも電子書籍と紙の本、そして図書館の関係みたいなテーマが何度も会議などのシーンに登場し、どうやって持続可能な運営をしながら人々の要求に応えてゆくかという高いレベルのやりとりが続く。図書館は民主主義な場であり、単に本がある場所でなく、人なのだという印象的かつ結論的意見が割と最初の方に出てきていたが、これは私が仕事をしている美術館や劇場などでも共通で、単に秀作を見せていればOKというものではない。
 私は20年ほど前にOUR MUSEUMという美術館をテーマにした作品を作った。京都市美術館とパリ市近代術館の歴史などを比較しながら「美術館とは人の人生にとって何なのか」という素朴なテーマを映像化した。幸いパリ市近代術館やポンピドューセンターなどの協力が得られて完成したが、現在でもそのテーマを裏付ける美術館の目標的な指針は変化していない。20年前から比べるとネット環境は飛躍的に変化して、本来であれば美術の分野でも何かしら展開があっても良かったのだと思うが、今の所、これという確信的な変化はない。また美術館本体も、この映画の言葉を借りると「民主主義な場であり、単に作品のある場所ではなく、人なのだ」という事を実践できているところはどのくらいあるのだろうか。見定めるには大きく俯瞰した視野が必要になると思うが、進化は乏しく後退をくい止めているだけと感じる部分も少なくない。ネット社会で実際にその場に行って見たり聞いたり話したりすることの重要性にどのような立ち位置が求められているのだろうか。

OUR MUSEUM (あなたにとって美術館とは?) 京都市美術館/パリ市立近代美術館 from Ufer! Art Documentary on Vimeo.

記録映像制作者として

 この映画を見たのは自分の仕事にもプラスになることが多分あるだろう、という下心は勿論あった。実際に見終わっていろいろダメ出ししたい部分もあった訳だが、「こんなに自由で良かったんだ」と思えた事は収穫だった。昨今では「動画」と呼ばれるネット用のプレゼン、告知映像に情報を詰め込んでかっこよく見せることがクリエイターと躍らされれており、お金になる案件の大半がそういう映像が占めて、それができることで評価されることが多いのだけれど、本物のクリエイターはもっと自由なところに存在している事を改めて感じた。
 実は今縁あって京都市美術館のリニューアルに関する記録映像の制作を委託されている。(縁あってと言っても指名された訳でなく、大手の制作会社も参加されたプロポーザル入札の末に受託)今年で3年目でいよいよ来年に完成するが、素材もそれなりに貯まってきている。でも3時間の映像を作りますと言っても、多分それは確実に受け入れて貰えないんだろうなぁと思いつつも、細かな一つ一つの素材の断片までを駆使して、京都市美術館という人格のようなものがあるとすれば、それがどう形成されて、今後どのように進むべきなのであるかが感じ取れるようなものが作りたいし、それが未来の人への記録の意義だとも思う。またこれまで美術館というものにあまり接する機会のなかった子供が夢を見られるような短編も作ってみたいと思っている。
 89歳になられるフレデリック・ワイズマンという人を見習えば、あと30年はこの仕事できるという喜びと、多少恐怖みたいなものも感じながら、自作に取り組みたいと思う。

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